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正直に言おう。自分は以前、ミニマリストという存在に対して「どこか貧乏くさい」という印象を持っていた。
狭くて、異様に白い部屋。家具らしい家具はなく、それはまるで刑務所での暮らし。あるいは、なにかしらの宗教を信仰していないと辻褄が合わないくらい質素な生活が、その部屋を修道院のようにも見せた。
今となっては、それが極めて表層的な偏見であったと猛省している。自分が実際にミニマリズムを取り入れ始めてから、受けた恩恵は本当に計り知れない。
しかし同時に、自分が持っていた偏見は半分正解だったのではないかとも思っている。なぜなら、ミニマリズムを実践することが、結果的に「貧乏に見えることを許容している」ことになるからだ。
我々の脳内で、「モノを持っていない」という事実は、いとも簡単に「貧乏そうだ」という情報に翻訳される。この感覚は、幼少期からすでに身についていたように思う。
傷だらけになったお下がりのランドセルを背負った子、ボロボロの服を着続けている子、みんなと同じゲームを全く買ってもらえない子を見て、直感的に「貧乏そうだ」と思ってしまったことは、誰しも一度や二度あったのではないだろうか。
その感覚を疑わないまま育った以前の自分のような人が、「モノを持っていない」代表のミニマリストに対して「どこか貧乏くさい」と感じてしまうのも無理はない。むしろ、そう感じるのが普通なのだと思う。
では、なぜミニマリストは「貧乏そうだ」と思われても仕方ないレベルまでモノを減らし続けるのだろうか。
自分にとって、その答えは一つ。自らの「最も大切な活動」を最大化するためである。
ミニマリズムとは、言うなれば「自らの最も大切な活動にフォーカスを当て、それを最大化するためであれば、いかなるモノも容赦なく捨てること」だ。
「最も大切な活動を最大化するために必要なモノか」という絶対的な評価軸が根源にあるから、実践している本人からすれば「貧乏くさい」と思われるようなことがあったとしても全く問題がない。
「貧乏に見せたい」人はあまりいないだろうけど、「貧乏くさい」と思われているかどうかは、多くの場合「最も大切な活動」とは無関係だからだ。
ここで、一般的な「所有」への価値観を考えてみたい。
いつか着るだろうと思ったけど、結局1年以上着ていないブランド服。色の重複したペンや何冊もあるキャンパスノート。なんとなく買った、インテリア性のあるオシャレな掃除機用のスタンド。
ブランド服や掃除機スタンドは、持っているだけで暮らしを豊かにしてくれそうである。ペンやノートも、いざというとき買い出しに行かずに書くことができるから、取っておいてもよさそうだ。
しかし、ミニマリストに言わせれば、それらは全て不要である。その理由は、それらが自らの「最も大切な活動」を最大化するのに全く貢献していないからに他ならない。
そうやって不要だと判断したモノは、捨てて捨てて、さらに捨てて、もっと捨てて、住んでいる部屋はやがて刑務所や修道院のようになっていく。そして自らの「最も大切な活動」に対して、時間、お金、集中力をさらに投下していくのだ。
ミニマリストが「最も大切な活動」のために多くのことを自ら望んで手放していると考えれば、それは結果的に「貧乏に見えることを許容している」と言えるのかもしれない。
もちろん、モノを買ったり持ったりすることで得られる幸せがあることは、ミニマリストも分かっている。
ここで面白いのは、むしろ多くのミニマリストに「モノから得られる幸せ」に飲み込まれた経験があるということだろう。
自分の場合、それは洋服だった。毎月10万円近くを注ぎ込みブランド服を買って、ボーナスが入ればその全てを服の買い足しに使っていた。複数枚あったクレジットカードの利用枠は常にパンパンで、毎月給料を上回る額の引き落としがあった。今でも「よく生きながらえたな」と思う。
当時、給料からはみ出る引き落とし分は、手持ちの服を売って補填するという自転車操業を続けていた。ひどい時は、「これから夏が来たら毎年これを着よう」と思って7月くらいに買ったものを秋には売りに出して現金化したこともあった。
初めてブランド服を買った時は、お金の心配もなく、ただ嬉しかった。それからも自分へのご褒美として時々買っていたのだが、いつからか、得られる嬉しさよりも「お金が無い」という焦燥感が上回っていることに気付いたのだ。
ミニマリストに限らず、こうして「モノから得られる幸せ」に飲み込まれたことのある人は、決して少なくないだろう。
ここで言いたいのは、モノを買ったり持ったりすること自体が悪い、ということではない。そういったモノの魔力に飲み込まれた人にとって、ミニマリズムが脱出装置になりうるということだ。
ミニマリストが「貧乏くさく」見えてしまうのは、モノが少ないから仕方ないとして、「実際に貧しいか」という話になれば、それは違う。ただモノを多く所有していないだけで、幸せ自体を諦めたわけではない。
むしろ、モノを手放した代わりに、精神的な豊かさには人一倍執着していると言ってもいいかもしれない。
そして、その精神的な豊かさは「最も大切な活動」を最大化してこそ得られると、ミニマリストは信じている。
「最も大切な活動」は人によって異なる。それは自分が普段から「100人ミニマリストがいれば、同じだけのミニマリズムの形がある」と言っている理由でもある。
その形は一人ひとり違えば違うほどいい。それこそが個性なのだから。
執筆すること。歌うこと。サウナに行くこと。スポーツをすること。山に出かけること。家族と過ごすこと。恋人と同じ部屋にいつつも、お互い違う本を読むこと。
そうした「最も大切な活動」を心ゆくまで行うと、心身が上向いていくのがわかる。それを精神的な豊かさと呼ばず、他に何をそう呼べるだろうか。
自分には、現代を生きる多くの人が「上手に生きよう」としているように見える。
SNSでまあまあな数のフォロワーを抱えつつ、まあまあの家に住み、まあまあの服を着て、まあまあの食事をしようとしているように見えるのだ。
皆が一様に「平均以上」を狙って生きている。それは、競争を生むという意味で資本主義社会にはメリットがあるかもしれない。だが、果たしてどれだけの人が自分の人生に「本当に満足」しているだろうか。
「平均以上」を狙おうとすると、価値判断の基準は他者に依存することになる。そして、自分が「まあまあ」いい暮らしができているかどうかを判断する基準も、結局は年収や、フォロワーの数や、交際相手のスペックだ。
もしそこに「本当の満足」がないと少しでも思っているのなら、するべきは「最も大切な活動」に使う時間を増やすことかもしれない。
そこから得られる精神的な豊かさは、ほんのり暖かく、そして柔らかく、実体のないものだ。SNSでシェアするには言語化しづらい、透明なものでありつつ、同時にその豊かさを確かに感じられる不思議なものだ。
ミニマリストは「貧乏に見えることを許容している」代わりに、「最も大切な活動」を最大化することで、他人の評価に依存しない「本当の満足」を追い求めているのだと思う。
自分が持っていた偏見は半分正解だった。しかし、そのもう半分、不正解の部分はあなたに都合の悪い示唆を残す。
もしかすると、あなたが「貧乏くさい」と思ったミニマリストは、あなたが知らない「本当の満足」を知っているかもしれない。